古郡 清隆(ふるごおり きよたか)
事務局長補佐
Director for Overseas Project, Tokyo Head Office
出身地 神奈川県
入職年 2014年7月
趣味 旅行、チャントゥーン(※)の作品を見ること
経歴 新卒で損害保険会社に入社し19年間勤務、途中で青年海外協力隊(フィリピン隊員)に参加
※チャントゥーン…ジャパンハートこども医療センターで施設保守の仕事を担うスタッフ。DIYが得意で、施設に必要な様々な道具(作品)を作り出す。椅子、スタンド、掃除用のワゴン、掃除用具の収納、棚……。
新卒で入社したのは損害保険会社。そこで19年のキャリアを積み、転職したのがジャパンハートだった古郡清隆にインタビューをしました。
古郡さんの業務内容を教えてください。
私の仕事は、複数の海外プロジェクトを東京事務局や理事会につなぐ、国境をまたぐ中間管理職のような仕事です。
日々の仕事は「各現場の相談役」といった感じでしょうか。活動地の人たちが困っている時に、一緒に課題解決の方法を考えて、次のアクションを手助けします。
事務局に戻ったのが昨年(2018年)の7月で、それまではカンボジアでプロジェクトディレクター(全体のマネジメント)をやっていたので、そこでの経験を活かして、現場の状況をできるだけ理解したうえで、組織全体に何が必要かを考えるようにしています。
でも、現場が、考え抜いて判断し解決できるところまで持っていけたら、自分の存在は必要なくなる。それが私の仕事の目標です。
古郡さんは、もともと損保のお仕事をされていたのですよね。
はい、横須賀で生まれ育って高校まで横須賀でした。大学から東京に出てきて、新卒で損害保険会社に入社しました。
本当はパイロットになりたかったんですが、その試験には落ちてしまって。それなら、色んな業種・業界を知れたほうが次にやりたいことが出てきた時に役立つのではないかと思い、金融機関を選んだのです。損害保険会社では営業部門で企業のリスクマネジメントをお手伝いする仕事をしていました。
その社会人生活からNGOへの転職って、大転身に思えます。
損害保険会社に勤めている途中2年間、休職をして青年海外協力隊でフィリピンに行っていました。この経験は少なからずジャパンハートへの転職につながっていると思ってます。
青年海外協力隊では、コミュニティ開発という分野で現地に入りました。
ある地域に、アメリカの支援で大量の乳牛が入り7つの酪農の協同組合ができた。さらにそれらの協同組合を束ねる上部組織として連合会ができたので、その連合会の組織運営の強化を支援する、というのが与えられた役割でした。
乳牛の数を管理して、生産の計画を作り、販売の販路を広げて、組織強化のために組織体制を作り直して……というのをやろう!と思って現地に入ったのですが、目標に誰もついてきてくれませんでした。日本から来てすぐの人間が「こうやるぞ!」なんて言っても、そりゃ誰もついてきませんよね。フィリピンの田舎の人にとって、私の言っていることは現実味がない、というのもあったのかもしれません。
1年が経過して、「もうこれからは、みんながやってほしいことをひたすらやろう」と思い直し、連合会の庭に花壇を造ったり、看板のデザインをしたりしました。最終的には、連合会の理事長の秘書的な業務をするポジションで組織運営に携わることができました。
損保からジャパンハートへ。大転身ですね。ジャパンハートに入職した理由を教えてください。
関心があったテーマは「医療」「教育」で、自分の大好きな「東南アジア」を活動拠点にしているところを希望していました。あと、東日本大震災の時にはフィリピンンにいたため何も支援活動に関与できなかったので、「東北」での活動をしている団体というのが理想でした。
そして、そのキーワードの全部を持っていたのがジャパンハートでした。
ジャパンハートに入職する時に何か葛藤はありましたか?
ないですね。周囲から何か言われることもなかったです。
安定した大企業を辞めてしまうこと、仕事の環境が変わること、待遇面が変わること、すべて理解しているつもりだったので、特に迷いも不安もありませんでした。「もしかしたら後悔することってあるのかな…?」と一瞬思ったのは覚えていますが、結局そこまで深刻には考えていなかったと思います。
入職後はどんな業務をしていましたか?
マネージャーという肩書で、東京事務局で“なんでも屋”をやっていました。支援をしてくださる企業様の開拓をしたり、iER(国際緊急救援)の担当業務をしたり。でも1年経たずしてカンボジアへ赴任となったんです。
カンボジアでの業務は多岐にわたりました。プロジェクトディレクターといっても、事務所のトイレットペーパーの管理、電灯の保守管理から、カンボジアの保健省との協議折衝まで。
古郡さんがカンボジアに行ったときは、事務所のスタッフは十数人。今ではスタッフは80人にのぼります。スタッフの管理は大変なこともあったのではないでしょうか。
毎月スタッフに手渡しする給料袋の数が増えると、人が増えたなぁ……って実感していました。
1日で辞める人が出た時は困りましたね。今はスタッフの数も多くなってきましたが、人数が少ない時は1人辞められてしまうとダメージが大きいので本当に困りました。
なかには入職前に辞める人もいました。
カンボジアの人は、働くことの価値観というか位置づけが、日本人とは違うんですよね。「ちょっと外出」くらいの気持ちで働いてるから、気分が載らないと“やらない”。お金がない、仕事がないことが普通になっているように思えます。最初のうちは、辞めさせない努力や工夫をしていましたが、そのうち辞めても回る運営を意識するようになりました。
でも、今は皆、以前よりは長く働くようになったんです。
特に病院ができてからの2年半、現場の日本人スタッフは粘り強くカンボジア人スタッフを育ててきました。そのうちカンボジア人は「自分でできる」ことが多くなり、それを実感して楽しくなってきたんじゃないかな、と思っています。カンボジア人スタッフは皆とても素直なので、教えている側も、成長を目の当たりにできてやりがいがあると思います。
時々現地に行って、カンボジア人が日本人の指示を受けずに動けるようになっているのを見て、「頑張ってよかったな」って思えます。そういうふうに組織が成長しているのを見るのは嬉しいです。日本人だけではできないプロジェクトですから。
古郡さんの赴任中、カンボジアには病院が2つ建ちました。
私がカンボジアに行った時は、ちょうどこれから1つ目の病院を建設するというタイミングでした。病院建設に対する政府の許可を取るところから始まって、建設業者を決めて、着工して、竣工する。竣工した後も、1つ目の病院はすべてがゼロからのスタートだったので、隣のポンネルー病院とどう連携していくか、勤務体制やシフトをどうするか、病院のルールをどうするか、スタッフの宿舎をどこにするのか、宿舎のルールをどうするか、などなど全部を決める必要がありました。
また着任1年目は病院建設の準備の他に提携病院での活動(手術、巡回診療)を月2回から月4回に倍増すること、2年目は病院を運営し、3年目は次の病院を建てるというのが赴任中のミッションでした。仕事は全部楽しかったですね。だって、こんな素人が病院を造らせてもらえるんですよ。日本で家も建てたことないのに!笑
仕事をしていて大変なことは何ですか?
熱い想いの人間関係の間にはさまれることですね。
「お金」とか「役職」とかで動かない人ばっかりですから厄介ですよ。笑
皆、「自分がやりたいことがここにあるから仕事や活動をしている」だけなんです。そういう人たちの一人ひとりのやりたいことを全て優先できるわけじゃないから、どこかで調和して、間を取るなどしなくちゃいけない。
そんな人たちをうまくまとめるポイントは?
複数の意見が出た時は、どっちかをばっさりと切り捨てるんじゃなくて折り合いをつけて着地させることが多いです。「聞いてないようで、聞いている」「聞いてるようで、やり過ごす」がポイントでしょうか。話を聞くことに対しての忍耐力があるのかもしれません。笑
前職の損保では、顕在化していない問題を聞き出して商品をカスタマイズするという仕事だったので、ヒアリング力はその時についたというのもあるかもしれません。
仕事をする上で古郡さんが大切にしていることは何ですか?
楽しむこと、楽しいと自分が感じるよう自分自身で努力や折り合いつけることでしょうかね。とはいえ、頑張らなくてもここでの仕事はだいたいは楽しいですけどね。笑
ジャパンハートに入ってから布団に入るとすぐ寝れるようになりました。カンボジアにいた時は夜7時頃に寝ることも多かったですよ。日曜日の夜に憂鬱になるなんてこともありません。笑
ジャパンハートはどんな団体ですか?
現場を大切にして、現場主導で活動を描けるのがいいですね。吉岡先生が「現場の人」だから、現場で物事を動かすという文化があります。
そして、「そうあってほしい」という私の願いでもあります。現場主導でものを描いて、現場で決めて、現場でリスクを負って、だからスピーディーにものが進む。そうあると楽しいと思います。
私たちは一緒に活動する仲間を募集しています!
「すべての人が、生まれてきて良かった」と思える世界を作りたい。ジャパンハートの活動に興味があり一緒に働いてみたい!という方、国際医療に関心のある方、NPOの仕事にご興味のある方など、まずは採用説明会にお気軽にご参加ください。