医者は謙虚さが大事、と思いたい。
10年前大学休学中に十勝平野の農家でアスパラガスを育てていた時、「どうすれば謙虚になれるか」と一緒に働いていた人に尋ねたことを今でも覚えているので、自分にとっては常に 身近な問いであった。それは裏返して言えば、功名心をコントロールし謙虚であることがいかに難しいかとずっと感じて来たということでもある。
最近、謙虚であることの条件は、「自分よりも圧倒的に大きな存在」を認識することだと思うようになってきた。
具体的には−
・自分は学ばなければならないというおのれの無知について痛切な自覚があること
・この人は私の師になるべき人である、と直感できること
・先の世代からの贈り物を次の世代に受け渡す使命を自覚していること
まず、医学知識のdoubling time(2倍になる時間)は急速に短くなっている。1950年の医学知識の総量が倍になるのには50年かかった。それが1980年には7年、2010年には3.5年になり、いよいよ2020年には0.2年、つまり73日になると予測されている。もはや365日24時間朝から晩まで勉強してもすべての医学知識を知る事は原理的に不可能である。だから物知りであることを誇示するのではなく、学び足らなさや無知の自覚から始めることしかありえない。相手が若くとも、初めて知る事には「ほーそいつは知らなかった」と新鮮に驚き、「知らないので教えてください」と請う、こういう態度を謙虚と呼ぶ。
次に、優れた師を見つけること。どんな職業も10%の優れた人、80%の普通の人、10%のダメな人で構成される、と村上春樹がどこかで言っていた(%は違っているかもしれない)。日頃から優れた師を求めるべくセンサーを機能させて自らの師になりうる人を探す。そして実際に会う人からでも、書物からでも、街中での誰かの些細な所作からでも、「あーこういう人になりたい」と感じられる柔らかな心身を持っておく。優れた師の、広く深い知識や技術・楽しく学ぶ態度を体感し、その立場になってもなお「学びには終わりがないのだ」という飽くなき好奇心や探究心を目の当たりにすれば、いつだって「自分なんてまだまだ」と思うことができる。そういう師がたくさんいる人はいつだって謙虚でいられる。
最後は、先の世代からの贈り物を次の世代に受け渡す使命を認識すること。わかりにくい話なのでサッカーの話をしたい。
『This is 中村俊輔〜語り尽くす40歳の本心』という動画の中に印象深い場面がある。
相手チームのサイドバックが味方をオーバーラップしたがチャンスに結びつかなかった。その直後に中村はマークしていたその相手に「中にカットインして走って行かれた方が怖かった」とアドバイスをした。一般的に、試合中に相手チームにアドバイスをして敵に塩を送るような真似は絶対にしない(自分の知る限り初めてである)。しかし、なぜ彼が敵にアドバイスを送ったかというと、一つは中村が若い頃、スター選手であった対戦相手のラモス瑠偉に「うまいね」「今そこ見てたの?」と声をかけてもらい、その一試合で自信がついたからである。試合中のラモスの言葉を自分宛の贈り物と感じ、その振る舞いを次の世代に受け継ぐことは自分の使命であると自覚したのである。もう一つの理由は、その試合の勝ち負けではなく日本が強くなるというより次元の高いことを優先したからである。日本国内での個々やチーム同士の相対的な優劣を争うことよりも、世界という大きな存在を意識しもっとJリーグのレベルを上げたいという思いから彼は相手にアドバイスを送ったのである。
先の世代からのメッセージを贈り物と感じて、次の世代がもっと良くなることを願いながら、そのバトンを繋ぐ人は謙虚になる。なぜなら、先の世代への感謝からすべて始まるからである。実際には先代からのメッセージはただの無意味な言葉に過ぎないかもしれないが、それを「これは自分宛の贈り物だ!」と思い込み、それに対する返礼の義務を自覚し、次の世代に形を替えて受け継ぐことに使命感を覚える。こういった人は、例えば日の出を見れば「お天道様今日もありがとう、洗濯日和です」と思い、きれいな水が浴びられれば「浄水器を作ってくれてありがとう」と思い、何事もなく患者を診れる環境には「この診察に集中できる場を整えてくれてありがとう」と、あらゆることに感謝を感じながら日々を過ごす。この自分宛の贈り物のリストが長ければ長いほど、その人は幸せを感じられる。逆に誰からも与えてもらうことなく自分は与えてばかり思っている人は幸せになれない。
謙虚であることはややこしい。(それほど功名心とやらは、「功名心」「功名心」「こうみょーうしん」と頭をもたげてきやすいのだ)
まあ、いろいろ考えずに今日は寝て、明日もまた皆んなでお寺に掃除と瞑想に行こう。
長期ボランティア医師 大江将史