何かを語るというときに一番大事なのは、自分が語る言明の保証人は自分しかいないと覚悟してその上で語る、ということなんだと思う。自分の言明の保証人は自分ひとりでいい。ひとりいれば十分なんだ。その人自身が、体を張って、自分の言葉の真理性を担保する限り、それだけでその言明は一定の、あくまで一定のだけど、真理性を持ちうると僕は思う。「私は自分の言葉に体を張ります」という個人がいる限り、その言葉はそれだけで十分に傾聴に値する。
『沈黙する知性』
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ジャパンハートでおよそ2年間働いて、やはりすごいなあ、と感じていることがある。それは、月並みな言い方になってしまうけれど、この団体が継続していることである。この海外医療の現場で長い間働き続けることはなかなか難しい。なぜか?
・ボランティアなので無給で働き続けるのが難しい
・他にももっと給料が貰える海外医療の現場はある
・日本の同期の医師たちはいろんな最新の技術を身につけていく
・ここでは資格はとれない
など、いろいろな誘惑が耳に入ってくるし、想像してしまう。
そして、例えばモバイルミッションに行って日々の農作業で痛めた肩痛や腰痛を訴えて受診する患者を診療しながら、「一体、自分はこんなところで何をやっているんだ」という思いが去来する。
正直に言って、この2年間、特に直近の半年間はそんないろんな思いと何度も向き合い、苦しんだ時間でもあった。国内での講演会も何度も行ったが、この本当に現場で感じていることを言葉にして伝えることはしなかった。目をきらきらさせながら海外医療の現場を聞きに来てくださる人には、なかなか話しづらい内容だから。
そして結局、一番最後に浮かび上がってきたのは、とてもシンプルな問いだった。それは最初から目の前にあり続けた問いでもあった。
それは、、、
「本当に、おまえは世界の貧しい人のために自分の実存を賭したいのか?」
というものだった。これは吉岡先生のいう「自分が幸せだからやっている」と同義だろう。
海外医療の現場で働いていると、「そんなところで働いていてすごいですね」とよく言われる。それは率直に嬉しい。でも、他人に「すごいですね」と言われたいがためにやっている自分がほんの少しだけ自分の中に存在していることに気がつく。
長くここで働いてよかったのは、そういう“お為ごかし”な自分と対峙して、「自分はここで働くことで幸せだ」と感じているのか、自分の身体と心に問い続ける時間を十分に持てたことである。この問いと真摯に向き合い続けられたのは本当に有意義な時間であった。
今は、また、新しいプロジェクトを考えている。
自分の人生を費やしても成し遂げる価値があると信じているプロジェクトだ。こうしてまた新しいことに取り組めることは、本当にありがたい。
去年、一番どん底に居た時、日本で一番仲が良い友人がこう言ってくれた。
「止まない雨はないから安心せい」
やっと雨がやんだ。嵐が過ぎ去るのをじっと耐えたからそこ見えてきた風景がある。
今、こうしてミャンマーで、ラオスで、カンボジアで、貧しい患者のために診療できていることに、本当にしみじみと幸せを感じています。
ミャンマー 長期ボランティア医師 大江将史