「こんな時代でもやりたいことがあって、それをしようと思えるのはすごいことだよ。いってらっしゃい。」
「現実見なよ。ここでせっかく求められてやらなきゃいけないことがあるのに、自分がやりたいこと優先するんだね。」
この相反する言葉は、2つとも私にとってとても大切な言葉です。
2020年、私は日本で働いていました。
そこは、コロナウイルスにより通常の救急搬送を受け入れられない病院が出てくるなか、一切のあゆみを止めず奮闘する地方都市最後の砦、ECMOセンターを持つ高度救急救命センターでした。
(元同僚たちにリスペクトを込めて)そんな中、「海外へ戻る」と決めた私に投げられたのが、この2つの言葉でした。
活動地であるウドムサイ。時季よっては、早朝とても冷え込み息が白くなることも。
コロナウイルスの影響で通常医療が滞る中、一看護師として働くことは意義がある、と感じながら働いていました。
けれど、どうしても頭の中を過ぎっては私を刺激する想いがありました。
「医療技術や制度が整っている日本でもこのような状況なのに、医療途上国の人たちはこの先どうなるのだろうか…」
日本はコロナウイルスにより得られた医療知識と技術を元に、更なる発展をしていくのだと思います。
しかし、医療途上国はそんな簡単にはいかないのではないでしょうか。
私じゃなきゃできないことなんて、この世の中に何もありません。
だけど私がしたいことはやはりそこにあって、そこにはそんな私だから見出せること、導けることがあるはずだというある種の使命感のもと、21年初め私は再びラオスへ出発しました。
医療活動を行うウドムサイ県病院にて、とある日の診療の風景。
他の現地医師にエコーを教えるまでに成長したDr.Daochan。
早く通常の診療活動が行えるようになりますように。
時は流れ、2021年10月。私はラオスの首都ビエンチャンのオフィスに一人でいました。
9月半ば、ラオスの首都ではコロナウイルスの大規模な集団感染が発生しました。
感染はすぐに全土に広がり、ラオス国内の感染者は今も毎日1,000人を超えています。
ロックダウンにより現地スタッフは在宅ワークへ勤務体制を変更しました。
また、ロックダウン直前に日本人スタッフは帰国しており、自宅兼オフィスには私一人きりとなりました。
そんな中、冒頭の言葉が頭に響き、私の心をぎゅーっと握ってきました。
「医療活動をすることができず、今後のための調査に行くこともできない…、
看護師である私が事務所でパソコンに向き合って座っている意味、価値は何か…、
なんであの時、日本を離れる決断をしたの…。」
それから2か月。このレポートを書いている今は12月です。
この間、日本人スタッフが新たにラオスにやって来ました。コロナウィルス対策が少しずつ緩和され、現地スタッフも分散出勤を始めました。
人がいるオフィスは、一人でいる時よりもずっと明るく感じます。
分散出勤の様子。ソーシャルディスタンスで仕事をしています。
笑顔で私たちの可能性を信じ一緒に活動してくれるスタッフのおかげで、私の心を締め付けていた何かは、次第に消えていきました。
そして、地球を救うような大きな使命感を持つまではいかなくとも、私がしたいこと、できることを丁寧にしていけば良いのだとそう思えるようになりました。
この先、時に立ち止まることもたくさんあると思います。
しかし、私は沸いて出てくる悩みに葛藤しながらも、考え続け行動することは、色々な人の気持ちを見つめ、それらと向き合うことに繋がると感じています。また物事に対し真摯な姿勢でいることは、自分の成長にも繋がると思います。
私は今回このような葛藤と向き合う中で、自分がここで出会う人たちの笑顔が映える、彼らが主人公のストーリーを創りたいと、そう望んでいることに気づくことができたように思います。
それがいつかの答えになると信じて…
ラオス事業部 看護師 吉田
内科診療や手術活動の様子は動画でもご紹介しております
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ラオス | 北部・ウドムサイ県での甲状腺疾患治療事業並びに技術移転活動