長期インターンの峯村です。
8月末にポンネルー地区スラーポー村で外来診療を実施しました。
スラーポー村は我々の病院から車で30分ほどの距離にあり、山頂の遺跡が有名なウドン山の付近、病院から見てウドン山の裏手に位置しています。
そして、2008年にショッピングモール建設を目的とした開発に伴いプノンペンから強制的に立退を命じられた人々が暮らす地域です。この村の人々は十分なインフラや住居環境、そして安定した収入がありません。ポンネルー地区の各村における人口に対するプアカード(公的扶助、日本の生活保護に近い制度)保有率が1~10%であるのに対し、スラーポー村ではほぼ全員がプアカードを保有しているといいます。(2019年および2021年のデータより)
この地域へは、こどもへの教育事業や食糧支援、医療支援を行うフランスのNGOがプノンペンからの移住とその後の生活を支援してきました。現在も支援活動は継続しています。このNGOと協力して必要な医療サービスに提供を実施すること、また村の人々に我々の病院の存在を知ってもらうことの2つが今回の巡回診療活動の主な目的でした。
村の中心からヘルスセンターまで約4キロも離れているため人々は医療機関に足を運ぶことが難しい現状にあります。今回は、協力を申し出てくださった民家の軒先を間借りしての実施です。
我々が診療活動を行うことは事前に住民さんたちには周知されていたものの、患者さんと思しき人がなかなか見当たりません。そこで、スタッフで手分けして住民さんたちに呼びかけにいきました。カンボジア人でアドミンスタッフのぺアップと家々を周り住民さんに声をかけながら歩いた時のことです。
「ここの人たちは、昔はプノンペンに住んでいた」
そう呟いた彼女の言葉が心に引っ掛かり、頼りなさげに立ち並ぶ民家へとつい視線を向けていると、目に入って来たのはある家の柱にかかった写真でした。高校か大学か、卒業の写真。紺色のローブを着て笑っている男性。その家は、もし「ここで暮らして」と言われたら尻込みしてしまいそうな、板の合間は隙間だらけの傾いた家でした。その時は腰の曲がったやせ細ったおばあちゃんが一人でいました。かつて、プノンペンにいた頃は、どんな暮らしをしていたのでしょうか。
いざ外来が始まると、当初の閑散とした様子はどこへやら、患者さんが続々とやってきて、お昼ごはんの時間がどんどんずれ込んでしまうほどでした。特にこどもの患者さんが多く、軒先はこどもたちのはしゃぐ声で常ににぎやかでした。
スペースが足りず、患者さんの待合場所も徐々に拡大していきました。それに伴い薬局スペースも椅子からゴザへ、そして最後には車のトランクで落ち着きました。
直射日光対策に段ボールやごみ袋で対応してみたり、部品が足りず作動しない医療機器を手持ちの材料を駆使して動くように試みたりと、あるものでなんとかする力が試される時間でした。
医療機器が作動するように知恵を絞っている様子
せわしくなく時間は過ぎ、予定より遅いお昼ご飯の時間になりました。近所に住む方が厚意でごちそうしてくださりました。
今回は日帰りの診療でしたが74名の患者さんが訪れ、予定していた時間内では診きれないほどの人数でした。終わりのミーティングの際に地域連携室長の山下から
「これがジャパンハートカンボジアのオリジン。スタッフには皆一度は体験してほしい」というメッセージが伝えられました。普段、病院にもたくさんの患者さんが訪れ、我々がカンボジアの人々から必要とされていることを日々の業務からも感じます。一方で我々の活動の原点に立ち返る時間にも重要な意味があります。普段とは違った視点で、我々の存在意義を再確認する時間を持つことは、これからも病院を拡大し続けるために忘れてはならないものを教えてくれます。そして、この先の未来で新たに迎え入れるスタッフやボランティアと共有すべき理念がここ、巡回診療の現場にはあるのではないでしょうか。組織の一員として、ジャパンハートカンボジアのこれまで、そして未来に思いをはせた巡回診療活動でした。
今回が、私にとって最後の巡回診療活動でした。病院の外に出て活動する日々は、自分の目でカンボジアのことを学び、ジャパンハートの歴史に触れ、スタッフたちの現場と向き合う背中を知る時間でありました。
医療スタッフの患者さんとのやりとりを見ながら、自分の役割を考えさせられ認識した時間でもありました。それは、目の前の患者さんを救うために医療者を支えること。
カンボジアの人々を医療で支えるチームの一員となれたことを誇りに思い、この経験を支えてくださったすべての方々へ感謝の気持ちを込めて、「巡回診療の現場から」を終えたいと思います。
長期学生インターン 峯村
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医療支援| カンボジア 巡回診療・手術活動