吉岡秀人プロフィール詳細

yoshiokahideto

生年月日:1965年8月12日
出身:大阪府吹田市
肩書:特定非営利活動法人ジャパンハート最高顧問/ファウンダー/小児外科医

最新メディア情報

多くの方々にご視聴いただき、ありがとうございました。 – 吉岡秀人出演 NHK BS「最後の講義」

略歴

吹田市立千里第一小学校卒業、吹田市立片山中学校卒業、大阪府立千里高等学校卒業。
大分医科大学(現 大分大学医学部)卒業後、大阪・神奈川の救急病院(岸和田徳洲会病院、湘南鎌倉総合病院)などで勤務。救急病院での勤務が4年経った1995年秋から、ミャンマーに渡り医療支援を開始。ミャンマーでの2年間の活動のなかで、小児外科としての技術習得の必要性を感じ帰国。1997~2001年、小児外科医師として国立岡山病院に勤務。そして2001~2003年3月、小児外科講師として川崎医科大学に勤務する。2003年3月、再びミャンマーに渡り医療活動を再開。2004年、「ジャパンハート」を設立し、短期間で海外の医療支援活動に参加できるスキームを確立し、協力者を増やしていく。日本国内でのへき地・離島への医療者派遣(Rika job)や心の医療(SmileSmile Project)も開始(2008~)。また、日本を含めたASEAN圏内で大規模自然災害が発生した際の医療支援活動にも着手(2008~)。その後、海外での活動はミャンマーからカンボジア(2009~)、ラオス(2013~)へと拡大した。

2017年6月 、特定非営利活動法人ジャパンハート最高顧問に就任。現在も移動を続けながら年間3分の2を海外の医療活動に充てる。2021年12月「第69回菊池寛賞」受賞。

※ジャパンハートは、2008年にNPO法人格を取得、2011年に認定NPO法人として認定を受けています。
※現在では年間700人以上がジャパンハートの海外医療活動に参加。これまで行った無償の医療活動は26万件を超えています(2022年度実績)。

SNS、ブログ、動画など

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@yoshioka_hideto

▼吉岡秀人/ジャパンハート最高顧問 ブログ note
https://note.com/japanheart
※2020年6月から吉岡秀人のブログ更新は、exciteblogからnoteに移行しました。

▼facebook
https://www.facebook.com/hideto.yoshioka.92

▼旧ブログ「発展途上国の子供を救え!小児外科医吉岡秀人の戦い」
https://japanheart.exblog.jp/

▼ジャパンハート吉岡秀人 第69回菊池寛賞(日本文学振興会主催)授賞式スピーチ

▼【人を信じることについて】吉岡秀人、一問一答

以下、活動来歴

幼少期は病弱。喘息持ちで、寝込むことが多かった。
実家は車の部品の縫製工場で近所の女性が大勢働きに来ていたが、オイルショックのあおりを受けて吉岡が高校生の時に廃業。中学生の時に母親が小料理屋を始めており、そのお金で生活していたため母親は昼も夜も働き通しであった。
(工場は現在は別の建物になっている)

15歳の時、戦争や飢餓で苦しむアジアやアフリカの子どもの映像をテレビで観て、そこで死んでいく多くの人と、日本という安住の地で生活している自分との間に不公平さや運命の理不尽さを感じる。その時の感覚が、19歳の「医師になり、医療にアクセスできない人に医療をする」“決意”につながる。身近に医療者がいたわけではなく、当時は情報を得る手段もほとんどなかったので「貧しい国の人を助ける手段=医療 ⇒医者になる」という連想で将来の目標を決めた。

高校生では勉強をほとんどせず、何となく国立大学の教育学部を受けるも不合格(ちなみに入試本番は3教科中2教科が零点という結果であった)。その後、自身の人生を俯瞰した時に、「これから長い人生、どう生きていくのか?」という問題意識に目覚め、15歳の時に目覚めた世界の運命の理不尽さに向かい合うために、突然医師になることを決意する。2浪の後、大分医科大学(現・大分大学)医学部に入学した。在学中は様々な医局から誘いの声がかかるも目指す海外医療に最短で進む手段として、卒業後は大阪・神奈川の救急病院などで勤務し医師としての経験を積む。
※高校時代は柔道を、大学時代は拳法をたしなむ。



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大東亜戦争の激戦地となったミャンマー(旧ビルマ)のメッティーラ。メッティーラは、英軍と日本軍が市街戦を行った地で、2万体もの遺体が埋まっているといわれている。この地にある「ナガヨン寺院」の境内に立つ古い仏塔が、元日本兵や遺族、日本の仏教徒らの寄付によって、慰霊のための施設として改修された。改修が済み「日本ビルマ世界平和ナガヨンパゴダ」と名付けられたのは、戦後50年が経った1995年11月。吉岡は、このパゴダの完成記念の法要に同席していた。法要は、日本からの訪緬団(慰霊団)によるもので、アジア仏教徒協会の方々や、戦争で家族を亡くされた方、戦友をミャンマーに残したまま帰還した方など二十数名で構成されていた。

そして、この時の吉岡の最大の渡航目的はミャンマーでの医療活動だった。
戦後50年が経ち高齢化もあり毎年の慰霊行為が難しくなってきていた慰霊団は、自分たちの慰霊活動に代わる方法を考えていた。

――ミャンマーでの英軍との戦いに敗走した日本人兵たちが命からがら英軍の追及を逃れる途中、水や食料を与え、傷を癒し、かくまってくれたのは名もなきミャンマーの農家の人々。その助けにより生き延びた約10万人の日本人が帰還することができた。そして戦後、復興にあえいでいた日本に大量の支援米を送ってくれたのもまた、ミャンマー人だった。

しかし、その後の経済政策で失敗したミャンマーは、劣悪な医療環境に陥る。そのさなか、メッティーラの街が大火に見舞われ、町の約半分が燃えた。その時にちょうど訪緬中だった慰霊団は、火傷を負った多くのミャンマー人が病院の前に放り出されたままになっている状況を目の当たりにしたという。その様子を目にして心を傷めていた慰霊団の方たちが「かつて日本人を助けてくれたミャンマー人の子孫を、そして家族・戦友が眠るこの地の人たちを助けることは、亡くなった日本兵への慰霊となる」と考え「日本人によるミャンマーでの医療活動」を慰霊活動に代える、ということに思い至ったという。慰霊団から依頼を受け、吉岡がミャンマーでの医療活動にあたることとなった。――

パゴダ法要への参列後、吉岡は一人ミャンマーに残り、医療活動に向けて準備を開始した。ミャンマー政府から医療活動の許可を受ける(MOU)ために、今後の活動を計画するため各地域をまわりながらニーズの調査を実施しMOUの原案を作っていった。1995年11月にミャンマー入りしてから、その準備と書類の申請などを経て活動を本格始動したのは、1996年5~6月からだった。活動内容は、無医地域への医療援助、栄養失調児に対する栄養給食、浄水の提供および衛生教育など。

当時のメッティーラ地域は人口約32万人だったが医師はわずか1名。吉岡は、メッティーラのはずれに住居を構えた。そこを拠点に周辺の4つの村の診療所や病院(医師は不在、看護師だけがいる)を巡回して診療や手術を行った。朝の5時から自宅に押し掛ける患者の診察を始め、8~9時頃から巡回診療、夕方に帰ると自宅の前には患者たちが列をなして待っているので夜中の12時まで診察をする毎日。日本から医師が来たという噂を聞きつけて、遠くから何日もかけて患者やその家族が押し寄せてきていた。そして夜が明ける頃には、また建物の外に詰めかけた患者が行列している状況だった。

巡回診療していた4つの村のうちアレイワ村の、助産婦が1人しかいないステーションホスピタルの隣に小さな診療所を建てた。当時、吉岡の派遣元であったNGOからは月7万円の給料が出ていたが、給料は全額、その診療所建設費に充当した。

この活動を2年続けるなかで、小児の開腹を伴う外科手術ができるようにならないと治療に限界が出てくると考え、いったん帰国。小児専門の外科医療を学び直すため、国立岡山病院、川崎医科大学に勤務。

1997~98年頃(岡山に勤めてる時)国内外の心臓病の子供を救う「明美ちゃん基金」(産経新聞厚生文化事業団運営)が支援した「ミャンマー子ども病院」建設プロジェクトで、支援委員長を務めたのもこの頃。

2003年3月からミャンマーで活動を再開。同年12月、一時帰国していた時に出会った春菜と結婚式を挙げるために数日帰国。その後すぐにミャンマーに戻り活動に復帰した。2004年3月に派遣元のNGOとの契約を終了し、帰国後、日本人6人と現地スタッフ数名でジャパンハートを2004年4月に設立。ミャンマーでは、外国人は軍病院や政府系の病院だと期間限定の一時的な治療しかできず、術後管理ができない、オペが執刀できない、高額な治療費をとらなくてはならない……など、制約が多かった。一方、9割の国民が仏教を信仰しているミャンマーでは、お坊さんの力が強く、政府の干渉が弱いというメリットがある。力の強いお坊さんがいるという噂を聞いてワッチェ慈善病院を訪ねると、お坊さんは吉岡たちを歓迎してくれた。ワッチェ慈善病院は、もともと貧しい人たちのために寺院が始めた病院だったため、ジャパンハートの活動に親和性があるということもあり、その病院を間借りする形で医療活動をすることとなった。

ジャパンハートの活動は、日本で貯めたお金だけを頼りにしており、お金が底をついたらおしまいになるので、それを先延ばしにするため簡素な設備でスタートした。出費を抑えるために、手術用の糸は個人商店で安いものを買い集めた。手術用のライトは小さいものを買い、明かりが足りない分は懐中電灯で照らした。同時に、継続的な活動につなげるために当時ようやくミャンマーでもはじまったインターネットで広報をスタート。当時、インターネットは日本では大きく普及し始めたばかりの頃で、ミャンマーでもタイの衛星回線を引けばインターネットにつながった。アジアの奥地で朝から晩まで治療を行っていた吉岡に、“インターネットという時代の恩恵”が味方になり、徐々に活動を共にしようとする医療者や、寄付が集まり始めた。



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現在、ミャンマーでは下痢や肺炎で死ぬ時代は終わり、課題はエイズやマラリアといったより高度な医療になっている。その中でも心臓病の治療には、高額な費用がかかるため、手を付けられていない。ジャパンハートも心臓病の分野に手を伸ばそうとしていたが、心臓病の治療は専門性が高い。また、毎年生まれてくる何万人(100人に1人が先天性心臓疾患で生まれる)という心臓病の子どもを本格的に救おうと思ったら、現地で医療者を育成し、ミャンマーの人々の手で子供を救う仕組みを作っていく必要もある。子どもを治療しながら、専門的な技術をミャンマーの医療者に伝えることで、現場で生かしてもらう……。

どうしようかと思っていたころ、「明美ちゃん基金」がミャンマーでの活動を検討しているという話を聞きつけた。明美ちゃん基金は「心臓の専門医とのネットワークと情報発信力」がある。ジャパンハートは「ミャンマー政府など現地と交渉してコーディネートする力」がある。長期間にわたり活動を共にしてくれる明美ちゃん基金とジャパンハートは、共に子どもの心臓病治療に取り組むことになった。

その後、ミャンマーで始めた活動は、ワッチェ慈善病院での慢性疾患の治療、近郊地域への巡回診療、現地専門病院や大学病院と日本の専門医による高度先進医療、視覚障がい者支援、養育施設(ドリームトレイン)の運営などに幅が広がっている。



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現地に入るまでは、自分と貧困層に対して同じことをしている日本人が世界にはたくさんいると思った。しかし、自分しかいなかった。紛争地域にいって医療をする人はいるが、貧困層にする人はいなかった。ジャパンハートはそれがオリジンとなり、貧困で医療を受けられない人々への医療を主なミッションとする活動を継続している。

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